まるで家出みたいに実家を飛び出してしまった。予約してある便は午後なのに。裕明はもう空港に来ていた。せっかく再就職先が決まったというのに、うまく伝えられなかった思いで裕明はいらだった。母が病気なのは分かってはいたが、しばらくぶりに会った母は想像以上に弱って愚痴っぽかった。何とか少ない選択肢の中からの仕事探しだったのに、母は喜ぶよりも安定しない仕事先の不安ばかりを裕明にこぼしていた。父が亡くなり、母にとって一人息子の裕明に求める思いは特別のものだったのだろう。出発便を待つ間、少しずつ冷静になっていく頭で、そう思った。もっと母親を安心させる言い方がなかったのか。また離れ離れに暮らす親子なのに、せっかくの帰郷が、帰りの日の一言でこわしてしまった。そんな悔しさを感じながら、出発ターミナルから見える山並みを見つめていた。搭乗時刻になり航空券がないことに気付いた。手荷物検査を通ったときには確かにあったはずだ。何度もカバンも調べたが見つからない。おまけに財布もなかった。裕明は頭が真っ白になった。なぜ、どこで落としたのか、盗まれたのか、財布は実家に忘れたのか…。機内へ入っていく乗客の流れの脇で途方に暮れていた。探しにもどる時間もない。とりあえず係の人へ話してみよう。そう思い、裕明は搭乗口近くのカウンターへ走った。係の人は、紛失届を出し、代替航空券を購入すれば搭乗できると説明してくれた。航空券が見つかれば後から払い戻しができるという。しかし裕明は購入するお金もないのだ。もどる電車賃も…。その時、すぐ近くの待合イスに座っていた年配の男性が立ち上がり、良かったら私が貸してあげますよと、話しかけてきた。裕明のやりとりが聞こえていたようで「困った時はお互い様だから」といって一万円を差し出した。まさか、見ず知らずの自分にどうして貸してくれるのか、という思いと、これで何とか明日からの仕事に間に合う、という二つの思いが頭をよぎる。男性は「連絡先を教えるから、後で返してくれればいいよ」と。そしてすぐ言葉を続けて「人助けをすると、私にもきっといいことがあると思ってね」と軽く笑って言った。裕明は、この人、何言ってんだろうという気持ちと、焦りと、自分の立場の情けなさで、思わすつられて苦笑いを男性に返してしまった。機内の扉が閉まり、ゆっくりとボーディングブリッジが離れていく。あせりが機内の静けさとともに安堵感に変わってゆく。ふと男性から渡されたメモを見た。まさかの住所だった。裕明が明日から勤める職場の住所と名前が書かれていた。なんという偶然だろうか。あわててあたりを見渡した。人の優しさと何かに守られているような不思議な気持ちが湧いてきた。東京へ帰ったら、一番に母へこの話をきかせてやろうと決めた。忘れたかもしれない財布のことも。

このストーリーはフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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