圭子は羽田の出発ゲートの長い通路を北ウィングに向かって全速力で走っていた。通路の先の方からは、沈みかけた夕日の眩しい光が差し込んでいた。たまの東京の空気を感じようと、途中のショップに寄っていたのがいけなかった。出発時間ギリギリだ。数年ぶりに神田で開かれた仲間との合唱会に参加した。各地に散らばっているメンバーと、何度もネットで練習してきた成果をお披露目する貴重な時間だった。合唱会は楽しかった。その満ち足りた余韻のまま羽田に来てしまい、きっと浮かれた気持ちがショッピング時間を長引かさせたのだろう。必死に走った。左に17番ゲートが見えてきた時突然、前のめりになり、そのまま圭子は見事なヘッドスライディング状態で転んでしまった。おもいきり膝を打ち、起きあげれなかった。前を歩いていた何人かが振り向き、駆け寄って起き上がるのを手伝ってくれたが、痛いやら恥ずかしいやらで、腰をまげたまま、お礼を言い、何とか自力で堪えて歩き出した。出発時刻まではあと5分。幸いゲートは目の前。搭乗中だったが、もう誰もいなかった。年寄りのように背中を丸めて、やっと機内へ入り座る。座席は、窓側から2座席目の通路側だった。すでに多くの乗客は座り、ネクタイをゆるめてぐったりしている人や、スマホにイヤホン姿の人たちが、静かに夕方の便の出発を待っていた。夕日がまともに機内に差していた。転んだのは、夕日が眩しかったせいかもと圭子は思った。圭子の瞳は黒ではなく少し茶色い色をしている。若い頃は、外人みたいと仲間に羨ましがれたが、圭子はとっては眩しくていいことは何もなかった。きっと夕日が眩しくて足元がよく見えなかったんだと、打ち付けた膝を見たが、傷にはなっていなかった。その膝を軽くさすりながら、ふと時計を見るとすでに出発時間は過ぎていた。どうしたんだろう?と周りを見渡すと、圭子の左の窓側の席が空いていた。機内アナウンスが「乗客の皆様がおそろいになりましたら出発いたします。シートベルトをお締めになってもうしばらくお待ちください」と告げた。圭子の隣だけではなく、周りの席にも幾つか空席はある。せっかく痛い思いまでして走ってきたのに、まだ自分より遅い人がいるなんて…、と少しムカッと感じた。窓側が空いているなら痛い足も伸ばせるから変えてみようと、窓側に席を変えた。しばらくしてドアが閉まる気配がして、飛行機が動き出す。窓から、離れていくターミナルビルの方を見ていたら、今まで座っていた元の座席に人が座っているのに気がついた。びっくりしたが、その座っている若い男の人はうつむいたままで、声をかける雰囲気ではなかった。この人は出発時間ギリギリで乗ってきて、座席番号が同じだからきっと間違ったのかもしれないと圭子は思った。でもどこかで自分が席を変えたと言わなければ、申し訳ないとも思ったが、その人はうつむいたまま動かなかった。夕暮れの離陸は早かった。あっという間に離陸して上空で機体が安定すると、ポーンという音と同時にベルト着用サインが消えた。何人かがトイレに立ち上がったが隣の男の人はそのままの姿勢だった。眠っているのだろうか。圭子は夕日が眩しくて窓のシェードを下げた。しばらくして膝の痛みで圭子は目が覚めた。ウトウトしていたようだ。目を落とし腕時計を見た時、隣の人の手が見えた。花を握りしめてる。花は少し萎びて首がたれていた。目を挙げてちらっとその人を見た。顔は見えないが肩が揺れている…。彼は泣いていたのだ、さっきからずっと…。圭子は慌てて窓の方を向いた。彼に気がつかないふりをして、シェードを上げる。夕日が沈んだ地平線は鮮やかな虹色に染まっている。また気になって少し振り向き「あのぅ、ごめんなさい、わたし…」と言いかけた。彼は顔を上げ、シェードが上がったこっちの窓の方をじっと見ていた。その涙まじりの瞳に虹色の空が映っていた。

このストーリーはフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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